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秩序と欲望、重ならない二人の幸せ−『劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語』感想(ネタバレ含みます)

はじめに注意。
当記事は『劇場版魔法少女まどかマギカ [新編]叛逆の物語』の重大なネタバレを含みます。
うっかりネタバレ踏んだと怒られても当方は一切責任を負いませんのであしからず!
未見の方はさっさとブラウザバックして劇場に急ぐことを進めます。
もう見たよって方、もしくはネタバレなんてもう何も怖くない、という方はどうぞ続きをご覧になって下さい。

君の銀の庭(期間生産限定アニメ盤)

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ほむらとまどか、欲望と秩序、それぞれの相容れないハッピーエンド。

さてさて、先日まどマギ劇場版を見に行ったわけですが。
炸裂するシャフト演出の数々、序盤の展開を見るにだいたい「あっ……(察し)」となるだろうストーリー展開、その予想をきっちり当ててくれる中盤以降の展開。そして大スクリーンで躍動する我らが佐倉杏子!ていうか杏さや!!!


今回の物語の世界が魔女化したほむらの結界によって作られたものであると判明して以降の絶望は、さながらTV版の第10話で提示された残酷な真実を彷彿とさせるようで、さあこの絶望をどうひっくり返してくれる?とワクワクしていました。
そして魔女として生まれ落ちてしまったほむらを、まどかをはじめとした仲間たちが救いにやってくるシーンでは迂闊にも涙が。
「ああ、TV版ではきちんと描けなかった暁美ほむらの救済と、偽りの平穏をぶち壊す話になるんだなあ、虚淵さん、ちゃんと王道描いてくれるじゃねえか……ていうかアレかな、『Fate/ hollow ataraxia』を意識しているのかしら?」
とか考えていたんですがね……。

ほむらにアルティメットまどかが接触した瞬間、その力を奪い取ったほむらのソウルジェムが変質。
そしてQBを前に自らの所業を「愛」と断言し、悪魔的存在を名乗る暁美ほむらとかいうクレイジーサイコレズ。
劇場内で「ほげええええええええ!?」って声を出さないようにするのが精一杯でした。
やってくれたよ虚淵さん……こんどは最後の最後でひっくり返してくれたよ……。
そして再び書き換えられた世界で、転校生となったまどかと、ほむらが再び出会うのですが、まどかが本来持っている神としての力はほむらによって抑えつけられる……。
……すげえよ、TV版のエンディングを自分の手でひっくり返してくれちゃったよ……
そして、さやかに対するほむらの宣戦布告、ズタボロになったQBと、変身してビルから飛び降りるほむら、という意味深なシーンでエンディングを迎えます。

正直なところ、劇場版を見終えた直後は「どうすんだよ……どうすんだよコレ……」という言葉しか出て来ませんでした。


ただ、冷静になって考えると、暁美ほむらというキャラクターにとっては、今回のエンディングが本来望んだ形ではあったんですよね。
まどかが魔法少女にならず、普通の少女として幸せな生をまっとうする世界。

思い返せば、TV版からずっと暁美ほむらの目的は「まどかを魔法少女にさせない、絶望して魔女にさせない」ことだったわけで、それを思うと、今回のエンディングは暁美ほむらにとってはベストエンディングといえるのかもしれません。


しかし、「誰かの役に立ちたい」という思いが転じて「魔法少女から絶望を取り除き、魔女化するというシステムそのものを消滅させる、そのために魔法少女になる」という選択だって、鹿目まどかにとって正しいものであったはずです。
TV版が最終回を迎えた時に書いた記事で、まどかは『Fate/stay night』の英霊エミヤにも似た秩序の守り手となったのかもしれない、と述べました。
そもそも、魔女化システムを撤廃するための方法自体が、既存の秩序をあらたな秩序で書き換える、というものでした。
今回、『叛逆の物語』においても、ほむらによって書き換えられた世界で、学校の廊下におけるまどかとほむらの対話のシーンでは、まどかは秩序の保たれた世界を「尊いと思うよ」と述べています。
鹿目まどかというキャラクターは、明確に秩序の側の人間として描かれているのです。


それに対して、暁美ほむらの立ち位置は、劇中での彼女の言葉を借りるなら「愛」ですが、魔法少女でない彼女と共に時を過ごして行きたいという「欲望」と言っても良いでしょうね。
まどかの不在による自らの孤独、人ならざる存在となってしまったまどかを思う気持ち、それがない混ぜになって爆発した結果が今回のほむらの行為の発端にあるような気がします。
これもTV版の最終回に際して述べたことですが、まどかは神になることによってほむらの孤独な戦いを知り、それを認めることによって彼女を救済したと僕は読んだわけですが、おそらくほむらにとって、それでは足りなかったのでしょう。
大切な友達が神様になってあらゆる時空に偏在することで、共にいるという曖昧なものではなくて、生身の人間として自分の前にいてくれることが、暁美ほむらにとっては一番大事だったのです。


秩序の担い手=神となった鹿目まどかは、暁美ほむらを含めた「あらゆる魔法少女」の幸せを願い、愛=欲望の化身である悪魔と化した暁美ほむらは、ただただ「鹿目まどかと、彼女と共にある自分自身」の幸せを願ったと言えます。
ここまで来ても、二人の望む幸せの形は決して重ならなかったのです。

そんな状況なので、冷静になってあのエンディングを思い返すと、
「無理やり神様としてのまどかの力を抑えているからいいものの、いずれまどかがその事実に気づいてそれを正そうとするなら、二人の終わらない殴り合いが発生しそうだよなあ……」という考えに至ったりしました。
あの先にあるのは、果てしない二人の痴話喧嘩でしかないのかもしれませんね……w
いっそ悲しいレズセックスで終わってくれてもいいのよ?w

という冗談はさておき、TV版を「まどかエンド」、劇場版を「ほむらエンド」として捉えるのならアリかなあ、というのが現在の僕の最大公約数的な考え方でしょうか。
どちらのエンディングも良い所悪い所がそれぞれあるので、いっそマルチエンディングということにしておくのが一番収まりがいいのかもしれません。

キャラクターの正当な選択と、物語的美しさの天秤

結局のところ、今回の『叛逆の物語』については、「TV版のエンディングが好きだった人間としてはあの終わり方を認めるわけにはいかないけれど、暁美ほむら個人の選択としては納得が行く」というのが僕のスタンスです。
ほむらのことを思うならああした選択に走るのは正しいとすら思えます。
でもあの終わり方は美しくないなあ、と僕が勝手に思っているだけの話です。

TV版のエンディングは「他人のことを思いやれる鹿目まどかという少女の選択」としては納得のいくものであり、かつあの時点でとれる最も最大公約数的なハッピーエンドだったという点で、僕は高い評価をしています(このへんも過去記事参照)。
言うなれば、物語的に美しいエンドと、キャラクターの選択として納得のいくものが重なった結末だったと言っていいと思います。

『叛逆の物語』については、暁美ほむらの選択としては正しいのですが、TV版やこれまでの物語展開を踏まえると、物語的に美しいエンディングだったとは僕には思えないんですよね。
ここまで来ると出来不出来の問題ではなくて、単純に好みの問題ではないかと。


実は暫く前に『Free!』を見た時も同じようなことを思ったりしまして。
あの作品のラストは、遥、渚、真琴、凛の四人でもう一度リレーを泳ぐことで、かつて失ったもの=純粋に泳ぎを楽しむ気持ちを取り戻す、という形になったわけです。
それ自体は物語的には必要不可欠なプロセスだったと僕は思うのですが、あの最終回を見た時「それを何も公式大会の場でやらなくてもいいだろぉおおおお!?」と頭を抱えたことを覚えています。
特に怜があんまりにも不憫だし、やらかしたことの大きさにしては周りの大人達は軽く流してる感じだしで、なんとなくもやもやしたものが残りました。
エピローグで、凛がこれまでのことを吹っ切って、鮫柄のメンバーともうまくやれている描写がなかったらおそらくもっともやもやしていたでしょうね。

あの展開も、キャラクターの選択としては納得がいく話ではあったのですが、物語の締め方としては「うーん……」と首を捻ってしまいました。
怜の言葉を借りるなら「美しくない!」と言うべきでしょう。

『叛逆の物語』にしても『Free!』にしても、シナリオの出来が酷いという訳ではなく、きちんと描き出すべきものを描き出した上で辿り着いたエンディングなのですが、それに対してここまで「うがー!!なんか納得いかねえええ!!」って思えるというのは贅沢な悩みなのでしょうねw


今回に限っては、どんでん返しのサプライズは凄かったんですが、ピースがハマるような快感は、僕は味わうことが出来なかったなあと思うわけです。
結局それは、先程述べたとおり「まどかとほむらの望みが重なり合わなかったこと」にあるのかなあとも思います。それが重なりあうような形で今回に続くエンディングを提示することが出来たならば、それは本当に歴史に語り継がれるべき美しい結末となるかもしれません。あくまで可能性の話でしかありませんけどもw