『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』に見る、比企谷八幡の「主人公力」。

艦こればっかりやってる訳じゃないんですよ。ハバネロです。

先日の日記にもちょろっと書きましたが、先日「俺ガイル」の原作既刊をすべて読破したので、今回はそこから見えてきた、比企谷八幡という男の持つ圧倒的な「主人公力」について述べて行きたいと思います。
基本的には、前回の記事、「『俺ガイル』はひねくれ者主人公だからこそ面白いんじゃないの?って話。」を補強していく形になりますので、未読の方はお手数ですがそちらにまず目を通して頂ければ幸いです。

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 (ガガガ文庫)

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 (ガガガ文庫)

あと、気づいたらすごく長い文章になっていたので読む人は気をつけたほうがいいかもしれません。
短くまとめるのが良い文章の条件だってわかってるんですけどねえ……
ともあれ、お付き合いいただければ幸いでございます。

ひねくれ者だからこそ出来る、「斜め下」の解決策。

さて、「俺ガイル」の主人公である比企谷八幡、彼は非リア充でぼっち、そしてひねくれ者というどうしようもない設定を付与されています。
……なんという俺。そう思った人挙手。
僕の場合、なんか出来た妹がいるところまで似ている。
なのに俺には雪ノ下も由比ヶ浜もいない。
もちろん戸塚も居ない。
こんなのってないよ、そんなの絶対おかしいよ!!

……すいません、少し錯乱しました。

さて、こうした設定は決して意味のない後付ではなく、むしろそうであるからこそ主人公として機能しているんじゃないか、という話は前回の記事で言及した通りです。
そうした予想を持った上で原作を読み進めていくと、その予感はハッキリとした確信に変わって行きました。
作中、奉仕部に対して持ち込まれる様々な相談において、八幡の提示する解決策はすべて、登場人物である雪ノ下雪乃の言葉を借りるならば「斜め下」な、ずっと「ぼっち」を貫いてきたひねくれ者でなければ提示できないものばかり。

その色彩をより強めるのは、原作四巻におけるエピソードでしょうか。
ちょうどアニメでこの話に差し掛かるところなので、ネタバレ無しの方向で行きますが、またしても正当な方法ではないにも関わらず、八幡はきっちりと問題を解決して見せています。

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。4 (ガガガ文庫)

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。4 (ガガガ文庫)

特にこの四巻においては、イベントで行動を共にすることになるリア充グループのリーダー、葉山隼人との対比が非常に意識的に描かれています。
作中で起きた問題に対して、隼人のとった行動は非常にまっとうなものでしたが、問題の解決には至りませんでした。
しかし、八幡のアイデアは、作中の言葉を借りるなら、問題の「解決」はしないまでも「解消」をきっちり成し遂げました。
それに対して、隼人は八幡を認めはするものの、決して仲良くはなれないだろう、という言葉を残しています。

この葉山隼人というキャラクターは、文武両道にして眉目秀麗というなんら否のうちどころのない人物として描かれています。
ある意味、理想の主人公像であると言って差支えはないでしょう。
しかし、その彼がまともな方法で解決し得なかった問題を、「ひねくれぼっち」の八幡が解決するという構図は、なかなか面白くニヤニヤしながら読めました。
まあなんていうか、正統派イケメンなキャラクターが活躍するのってちょっと腹立つじゃないですかw
そんなのは少女漫画かトレンディードラマの中でやってくれれば十分なんですよ!w
キムタクが「メイビー、ちょ待てよ!!」って言うのはもう見飽きた。
……微妙に古いか。

また、「正しいからこそ、その正しさが孤立を招く」と評されるヒロイン、雪ノ下雪乃との対比も面白いですね。
葉山隼人の「正しさ」が万人を幸せにする最大公約数的な「正しさ」であるのだとしたら、雪ノ下雪乃の「正しさ」は正論を容赦なく突き付ける無慈悲な「正しさ」であると言えます。
雪乃は最大公約数的な正しさを嫌っているものの、彼女自身もまた、「正しさ」に縛られたキャラクターなのです。
彼女はそれ故に傷ついてきました。
またそれ故に奉仕部の活動において決定的な解決策を導き、彼女を折にふれて救済しているのは、「ひねくれ者」であるがゆえに「正しくない」ことを利用できる八幡である、という構図はシリーズを通して描かれています。
つまり、「正しさが常に正解を導けるとは限らない」ということがずっと描かれているのです。
一方で、「正しくない解決策をとる」ことを全面的に肯定しない、という部分も見えてきて、さらに物語に味わいを添えているまである。

特に、六巻や七巻では八幡は意識的に自らが傷を引き受けることで問題を解決に導いている描写があり、雪乃や結衣は、そして平塚先生もそれを良しとはしていない様子。
そのあたりの主人公の救済が如何にしてなされていくのか、というのは今後の展開における注目ポイントであるといえるでしょう。

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。〈6〉 (ガガガ文庫)

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。〈6〉 (ガガガ文庫)

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。〈7〉 (ガガガ文庫)

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。〈7〉 (ガガガ文庫)

こうした「露悪的な自己犠牲」を選ぶ主人公、というと、『コードギアス』の終盤におけるルルーシュの行動を思い出してしまう人は多そうですね。

それよりも、比企谷八幡というキャラクターの普段の行動を見ていると、僕はどうしても伊坂幸太郎作品に登場する、「屁理屈こねながらも素敵にカッコいいヒーロー」たちを思い出してしまうのです。
とくに、『チルドレン』の重要人物である陣内と、『砂漠』に登場する西嶋のイメージが強く浮かびますね。
砂漠 (新潮文庫)

砂漠 (新潮文庫)

今名前を上げたひとたちは、作中ホントに無茶苦茶な理屈で滅茶苦茶なことばっかりやってるんですが、その滅茶苦茶さが、決めるべき所ではきっちり決めるためのファクターとなる、そんなキャラクターになっております。
その辺が、俺ガイルの八幡という主人公像に通じるものを感じます。
原作でも、八幡が伊坂幸太郎の作品を読んでいるという話が登場する(ご丁寧にも、有名になってからの作品はあんまり読んでない、とまで書いてあるw)ので、もしかしたらその辺りは意識的に行われているのかもしれません。
まあ確かに『あるキング』とか何がしたいのか正直良くわからんかったし、『モダンタイムス』も長い割に爽快感無かったしなあ……余談ではありますが、上記で名前を上げた二作品は伊坂幸太郎でも特に「読みやすさ」と「面白さ」の二点において自信を持ってオススメできる作品ですので、「俺ガイル」いけるよって人は是非ご一読あれ。
既読の方は、「うんうん、そうだよね」って納得してくれると嬉しいです。


……話があらぬ方向にそれました。
とにかく比企谷八幡は、ひねくれ者であるが故に物語のカタルシスを生み出す「主人公」としての役割を果たすことが出来る、というライトノベルでは珍しい資質を持った主人公である、ということを原作を読んでより一層強く感じました。
また、「ひねくれ者のぼっち」であるということは、葉山隼人的な「イケメン主人公」になんて共感できるかよ!っていう読者の思いをきっちり汲み取っているとも言えるのです。
今期のラノベアニメだと、そうした主人公力という点では『はたらく魔王さま!』がちょっと近いかなと思います。
魔王は仕事もできてイケメンでめちゃくちゃいいやつなんですけど、貧乏なフリーター生活をやっているという「欠点」が共感ポイントになってるんですよね。
昔から創作の基本として、「完璧主人公はよくない、欠点を持たせよう」ってよく言われるんですけど(中二病全盛期だった頃、ラノベ創作指南が書かれたサイト見まくってて目にした覚えが……)、その「欠点」が物語的必然性にまで関わってきているという時点において、「俺ガイル」と「魔王さま」の主人公像はとても良く出来ている、と思わざるを得ません。


「ぼっち」だからこそ、ラブコメが「無理なく」書ける!!

さて、長いので「俺ガイル」と連呼していたこの作品の正しいタイトルを今一度思い出してもらいましょう。
そうですね、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』ですね。
今までは、奉仕部における比企谷八幡という主人公の活躍にクローズアップして話を進めて来たわけですが、タイトルになっている「ラブコメ」の部分はどうでしょうか。

ここにおいても、「ぼっち」であることが大変上手に生きています。
その辺りは、特に由比ヶ浜結衣との関係性に見て取ることができると思います。
奉仕部パートにおけるヒロインが雪ノ下であるとしたら、ラブコメパートにおけるヒロインは結衣でしょう。
結衣に対抗しうるとしたら戸塚きゅんくらいしかいないんじゃない?(すっとぼけ)

真面目な話、「もうホモでもいいや……」とか「こんな可愛い子が男の子のはずがない」という言葉が頭ではなく心で理解できたのは、アニメで戸塚きゅんを見た時であったと言っても過言ではありません。
メイド服姿とか最高すぎて、思わず「ああ^〜」と声が漏れたくらいで……

今こうして見返しても胸が高鳴りますね。ふへへへ。


……話を戻しましょうかw
作中、由比ヶ浜結衣は、交通事故に遭いかけた飼い犬を八幡に救ってもらったことをきっかけに、彼に淡い好意を寄せるようになりました。
凡百のラブコメ作品であれば、雪乃との間に八幡をめぐる恋の鞘当てが勃発するところなのでしょうが、そうは問屋がおろしません。
もちろん、その理由としては、雪乃の八幡に対する感情が明確な好意には至っていないのも勿論あると思います。
しかし、それ以上に、八幡がきっちりと結衣の気持ちに対して予防線を引いているのが大きいでしょう。

しかもその予防線の引き方も、「ぼっち」で「非リア」であるからこそ出来る、というものになっているのです。


その具体的な話をする前に、ラブコメというものについて少々思いを馳せてみたいと思います。
基本的に、ラブコメ「誰かとくっつくまで」を描くものです。
逆に言えば、ラブコメ主人公は「物語が決するまで誰かとくっついてはいけない」というルールに縛られます。
なんやかんやイベントがあって、最終的に好感度マックスとなったヒロインとくっつくわけですが、ことラブコメというジャンルにおいては、物語を長く読者に楽しんでもらうための「延命措置」を取ろうとすると、その時不思議なことがおこります。
たとえば、「お前ホモかよぉ!?(驚愕)」とツッコミ入れたくなるくらい、積極的にアプローチをかけてくるヒロインをすげなく扱う割に男キャラとはやたら仲良くしていたり。
ヒロインの告白に「えっ、なんだって?」と突発性難聴にかかってみたり、タイミング悪く邪魔が入ったりとか。
これも長年ラブコメジャンルで行われてきた伝統芸能であり、有効な手段であることは否定出来ません。
しかし昨今それがネタ扱いされる風潮があるように、若干手垢にまみれてきつつある印象は拭えないかと思います。

そうした状況の中で「俺ガイル」は、延命措置のための予防線に正当性を持たせることに成功している稀有な例ではないかと思います。

まず、由比ヶ浜結衣にとって比企谷八幡が恩人であるということが発覚した際の対応ですが、八幡は結衣に対して、「別に、お前んちの犬助けて俺が怪我したからって、俺にとりたてて優しくする必要ねーから」という旨を伝えます。
そうして微妙になったふたりの距離感を、結衣の誕生日というイベントと、「部活の仲間」として関係性を再定義するということで解消していきます。
ここまでが原作二巻のラスト。アニメでも、ニコ動配信での最新話が(5/25現在)このあたりですね。
原作五巻のラストでも、再び八幡と結衣は良い感じの雰囲気になるのですが、ある出来事をきっかけに八幡は自ら結衣を置いて一人立ち去ってしまいます。

そのラブコメ主人公としては奇妙な行動を裏打ちしているのが、「非リア」で「ぼっち」であるという八幡のパーソナリティーなのです。まじ無茶苦茶ブレない主人公。

「ぼっちあるある」なネタとして、女の子に話しかけられるだけで好きになってしまうし、その子が自分のこと好きなんじゃないかと勘違いしていしまう、というものがあります。
……ええ、僕も経験したことありますよ。やべえ過去のトラウマ思い出して死にたくなってきた。
……ってそうじゃねえ。僕の話はいいんですよ。
八幡もその例に漏れず、中学時代にそんな経験をしたことが語られています。
だから、「女の子が優しくしてくれてもむやみに信用しないし、その裏には必ず理由がある」と思ってしまうのです。
それが、二巻ラストでの対応に繋がっているんですね。

また、五巻ラストの不可思議な行動については、これもネタバレを避けるために詳細は伏せます。
ただ、その根底にあるのは、結衣を傷つけたくないという八幡の優しさであるということだけは言っておきたいと思います。
そもそもその原因を作ったのは、結衣と八幡の間にある、絶対的な「スクールカースト」の差なのです。
この辺り、結衣が前述の葉山隼人と同じ、「リア充グループ」すなわちスクールカーストの最上位に位置しているという設定がとてもよく効いています。
誰かが、「リア充」である結衣が「非リア」である自分と親しげにしているところを見たら、その人はなんて言うだろうか。
その心ない言葉によって結衣が傷つく事態は避けねばならないと思った八幡は、結衣の側から離れるという選択をとります。
奉仕部の活動におけるヒロインである雪乃が、その正しさ故に正しくない八幡の対立軸として、彼の行動を際立たせるのであれば。
ブコメパートにおけるヒロインである結衣は、圧倒的に「スクールカースト上位」の存在であるが故に「ぼっち」=「スクールカースト下位層」である八幡の対立軸として、彼の行動に正当性をもたらしているのです。
このへんはヒロインの設定も巧いなと思います。


さて、どうでしょうか。
一般的なラブコメ主人公が「鈍感力」によって予防線を引いていたと考えると、その差は明白ではないでしょうか?
「まちがっている」ラブコメの主人公である比企谷八幡は、いわば「敏感力」によって予防線を引いているのです。

ゆえに、物語を延命するのに不自然なホモ要素も、不自然な難聴も必要ないのです。
ただ主人公の「ぼっち」で「非リア」であるというパーソナリティがそこにあれば良いのですから。
でも八幡は不自然なレベルで戸塚きゅんのこと好きすぎると思いますけどね。
まあ戸塚きゅん可愛いからね、仕方ないね。
天使だもんね。おまけにCVみかこしだもんね。

……また話がそれそうなのでここらで締めておきましょう。
極力不自然さを排除してラブコメを展開する上で、比企谷八幡という主人公がぼっちで非リアであるという設定は大きな役割を果たしている、ということが、ここまでの話である程度お分かりいただけたのではないでしょうか。

比企谷八幡が切り拓く、新たな「主人公」の地平。

さて、ここまで長々と文章を連ねてきました。
主人公としての比企谷八幡は、物語としてのカタルシスを演出するための能力を持ち、また読み手に共感させる能力と物語を延命させる能力にも長けているが、それを支えているのは「非リア」で「ぼっち」という残念極まりない設定である。……というのがここまでの話の要約です。最初からそう書けよ。

改めて見るとなんか凄いですね。およそ物語の主人公として求められる要件は満たしているのに、その要件を満たす理由が世間一般の主人公像とは真逆とはいったい……。

ただ、そうしたぼっちな主人公というのはフィクションの世界においてはこれまた手垢のついた存在であります。たとえばエヴァンゲリオン碇シンジくん。
ぼっちであるがゆえにエヴァに搭乗しATフィールドを張れる彼もまた、ぼっちであるがゆえに主人公力を持ったキャラクターです。
彼はもはや日本一有名なぼっち主人公といって過言ではないような気がします。……嫌だなそれ。

そんなシンジくんと、比企谷八幡の決定的な違いとはなんでしょうか。
それは、「比企谷八幡はぼっちである自分を決して否定しない」ということ。

原作一巻のラストで特に象徴的に描かれているのですが、過去のトラウマは色々あれど、今現在自分がぼっちであるということを比企谷八幡は全力で肯定しています。
ぼっちであったからこそ出会えたものが会ったし、そうした出会いを無駄にしたくない、とも述べています。
彼は今のところ、自らを変える必要性をこれっぽっちも感じていません。それについて思い悩むのではなく、受け入れてむしろ己の武器としています。
「俺ガイル」という作品の読後感が、決して湿っぽいものではなくむしろ晴れ晴れとした爽やかさを与えてくれるのは、こうした比企谷八幡の「後ろ向きな自己肯定力」にあるのではないでしょうか。
これまで上げてきた様々な要素の背景には、全てそうしたぼっちな自分に対する自己肯定が隠れているように思います。

理由なき無気力や鈍感さも、突発性難聴も、孤独に悩む姿も必要ないのです。
正義感、熱血さ、顔面偏差値さえ地平線の彼方へ追いやるまである。
ぼっちでもいいんです。
非リアでも、ひねくれ者でも構わない。
主人公として、カタルシスを演出し、読者に共感を抱かせ、物語の寿命さえ延ばしてみせる。
それはすべてぼっちだからこそ出来る、という圧倒的な物語的必然性。
そして何よりも「ぼっちであることを恥じるなかれ」という後ろ向きなメッセージを僕らに対して全力で提示する比企谷八幡の姿にこそ、僕は大いに共感し、そして可能性を感じるのです。

「よくある長文タイトルの糞ラブコメライトノベルだろ?」なんてスカしたこといってると大損こきます。
今もっとも希求される主人公と、物語が、そこにある。
少なくとも僕はそう思うのです。



※ここから先は完全に余談です。
時間に余裕のない人、またネタをネタと理解できない人は読まなくても構いません。

全国のぼっち諸君(僕を含む)に捧ぐ。

……誤解なきように言っておきますが、勿論ぼっちであることを全肯定するつもりもないですよ。
やっぱりまともに社会生活営んでいく上で、コミュニケーション能力って大事ですしね。
ただ、大事だとわかっていても一向にコミュ力身につけられない人だっているんですよ!
そう、僕だ。死にたい。

ところが、ここしばらくホント色々思い悩んでて、気づいたんですよ。
コミュニケーション能力の欠如するその理由の根幹って、自己否定なんだって。
それがさらなる自己否定を招く負のスパイラルを起こすことにも気づいてしまったんですよ。

……だったらいっそ自分を肯定してしまえばいいのです。
周りの人間、特にリア充どもと比べて劣るのは否めないじゃないかって?
奴らは群れる楽しさ、それに繋がる数の暴力の快楽を知っているかもしれません。
だがきっと、あいつらは一人の楽しさを享受したことなんてないでしょう。

誰かとメールやFacebookで繋がる楽しさを知っているかもしれませんが、同時にその煩わしさに悩んでもいるでしょう。
一人本のページやテレビの画面に向かい合い、もうひとつの世界を追体験する時間なんて、十分に取れていないかもしれません。
その楽しさを知ることもないのかもしれません。
そろそろ可哀想だからこの辺でやめといてあげますよ、僕は優しいので(震え声)

もう一度言います。
全世界のぼっち諸君、ぼっちであることに思い悩んではいけない(戒め)。
それをむしろ肯定してしまいましょう(提案)
その行為が認められるかどうかはさておき、ぼっちであるから出来る事だって無い訳じゃないのです。

俺ガイルの原作にこんな台詞がありました。

「みんながぼっちになれば争いも揉め事も起きないだろ」
――渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。4』 P.226

そう、ぼっちは世界を救うのです。ぼっち is peace です。
ひとりひとりは確かに僅かな力しか持ち得ないかも知れません。
しかし、全世界のぼっちが力を合わせれば……いや、この表現は正しくないですね。
ぼっちと団結というのは決して混ざり合わない言葉です。
ぼっちとは完全無欠、負けることなら最強のワンマンアーミーです。つまりミスターブシドーです(?)。
しかし、ぼっちであることを肯定して行動を始めれば、何かが変わるかもしれません。

そうです。
俺が!
俺達が!!
世界を曝く!!!
一 人 旅 団 だ!!!!

そういうことを、僕は『革命機ヴァルヴレイヴ』から学びました(大嘘)

いや、ギャグアニメとか言われてるけど、なんかいよいよまともな方向にエンジンかかってきたんで割と注目してますよヴァルヴレイヴ。
あとCVほっちゃんな先生のおっぱいに注目してます。
……なんかオチ担当みたいにしてしまって、好きな人には申し訳ないことをしてしまったと思います。
ごめんなさい。
でも一人旅団って言葉を一度でいいから使ってみたかったんです。
すいません反省してます。


……それではお口直しに、僕が愛してやまないthe pillowsのある曲の一節を紹介することで、改めてこの記事の結びとしたいと思います。


I'm fine with alone.                 
Moreover I'm not alone now.            
No one can shut me.               
Because this my feet is while being free.     

(訳)
オレは独りでも平気だ
しかも今独りじゃない
誰もオレを閉じ込められない
この足は自由なままだからね
―― Doggie Howl / the pillows

HORN AGAIN

HORN AGAIN

そう、ぼっちであることは、もっと自由でいい。